警察の力(Long Arm of the Law)
その4

著者:John H. Crowe, III
日本語翻訳:TRAM


 こういった職権乱用を許した理由とは何だろうか? その主な理由は4つある。まず第一に、各種連邦組織(特にF.B.I.)の急速な拡張を国会が承認したことだ。拡張の必要性があったとは言えども、これら政府の重要機関に対する漸進的発展への計画は何もなかった。第二に、国会が趣旨を明確に文章化していない数多くの法令を通過させたことだ。それゆえ扇動防止法のような法律は、熱心すぎるエージェントによって容易に悪用されることとなった。第三に、J・エドガー・フーバーなど政府高官が、根拠や明確な容疑もなしに正式な手続きも踏まえず市民の詳細な身辺調査を行うことを積極的に奨励したことだ。これは個人のプライバシーや市民権を侵害したり、(被害者の)評判を汚したり、生活を目茶目茶にする事態などをもたらした。第四に、連邦のエージェントは一般的に訓練を殆ど受けておらず、法の執行者の悪い見本であった。基準も設けられておらず、元探偵だったというだけのエージェントもいた。政治家たちはエージェントの事件に対して不当威圧*1を行使したが、そういった事態の変化は1930年代半ばまでは起こらなかった。

*1…原語は undue influence 。つまりはエージェントの職権乱用を政治家が圧力をかけてうやむやにしていた、ということでしょうか。

 1924年にJ・エドガー・フーバーがF.B.I.長官に任命されたのは好ましくない事態ではあったが、良かった点も少なくとも一つはあった。彼は警察のプロ意識の促進を声高に主張していた。F.B.I.をプロ意識の模範とするべく行った1930年代の彼の努力は、かなりの成功を収めた。大卒者を入れ、最初の連邦犯罪研究所が1932年に設立され、国立警察学校が1935年に創設された。フーバーの努力はF.B.I.の評判を変え、1930年代にはアメリカの法執行機関を主導する存在としての名声を確立した。この新たな名声は、連邦の法執行機関が第二の拡張を始める理由の一つとなった。有名な飛行士チャールズ・リンドバーグの幼い息子の誘拐殺害事件を受けて1932年にリンドバーグ法が可決されたことは、F.B.I.にとっては重要だった。新法では誘拐は連邦犯罪とし、F.B.I.は誘拐事件調査専門の特別ユニットを作った。F.B.I.は、1930年代の悪名高く極めて狂暴なギャングと戦う組織を先導する存在であり、ルーズベルト大統領は犯罪と戦うことにより拡大する連邦の責任を後押しするべく最善を尽くした。反対する者も多数いたにもかかわらず、議会は以下の罪を連邦犯罪とする一連の法律を1934年に可決した。その罪とは、ナショナルバンクへの強盗、起訴を避けるため州をまたがって逃げる行為、州際幹線道路を使用しての密輸行為、州の境を越えて盗難品を輸送する行為、連邦の役人に抵抗する行為である。1930年代後半に、ルーズベルト大統領はスパイ活動、逆スパイ活動、(ファシストや共産主義者にとって関心の高い場所の)破壊工作を防ぐための権限をF.B.I.に与えている。1930年代のF.B.I.の拡張は劇的だった。1934年からアメリカが第二次世界大戦に直接関わりあう時期までに、F.B.I.は人員をそれまでの772名から4000人以上へと増やしている。

 この表は、両大戦間に存在した最重要連邦機関のリストである。

1920年代および1930年代の重要連邦機関

連邦機関名
マーシャルサービス
国税局(I.R.S.)
財務省秘密検察局
入国帰化局(I.N.S.)
国境巡視隊
連邦捜査局(F.B.I.)
関税局
酒タバコ火器局(A.T.F.)†

創設年
1789
1862
1865
1891
1924
1924*
1927
1972


司法省
財務省
財務省
司法省
司法省(I.N.S.の一部)
司法省
財務省
財務省(1972年以前はI.R.S.の一部)

 * その前身は、司法省内部に1908年に創設された捜査局である。第一次世界大戦が始まり新しい任務(防諜活動や、破壊活動防止など)ができるまでは、捜査専門の小集団だった。
 † (訳者注)原語は Bureau of Alcohol, Tabacco, and Firearms なんですが、訳語が判らなかったので「酒タバコ火器局」と直訳しておきました。

裁判所
市民権が法務官の心中にて主要な位置を常に占めているわけではなかったとはいえ、裁判所にも偏見が存在していた。PCがシナリオ中に法廷にて裁かれる時には、実際の証拠に加えて数多くの要素が裁判に影響を与えるだろう。裁判官や陪審員、検事そして弁護側の弁護士の個人的偏見までもが考慮すべき重要な要素となる。例えば、検事は正義を追求するよりも有罪判決を勝ち取ることに心惹かれている場合もあるだろう。結局裁判は完璧ではなく、裁判官や陪審員、もしくは熱心に取り組む検事たちの偏見が無罪の人間を有罪とする結果になることもあるのだ。しかし全ての裁判所がこうだったわけではない。1920年にJ・エドガー・フーバー率いる連邦当局がいわゆる不穏分子やアメリカ在住の過激外国人を厳しく取り締まった時の事例が顕著な例である。数千人もの人々が連行され、ボストン地域だけでも六百人が連行された。そして危険分子は40日以内に国外退去することとなると宣言された。アメリカ市民であることを主張した一人の容疑者がジョージ・アンダーソン連邦判事のまえに連れてこられた際、彼の釈放の命令がすぐさま出された。アンダーソンは、出入国管理官が不当に逮捕されたアメリカ市民を主張する人々を国外へと一掃するやり方に憤りを感じていたのである。恐らくアンダーソンのような男は例外的人物だったのであろうが、キーパーは探索者たちを1920年代や1930年代当時のアメリカの司法システムに沿った基準で対処するべきではないだろう。

全体的評価
第二次大戦以前には、全地域に渡る法執行のモデルは何もなかった。各管轄地域では治安維持の独自スタイルを持っており、それはその地域の社会的背景や経済、政治の状況などといった要素によっていろいろだった。様々な警察機関に加えて、容疑者たちはひびの入った裁判システム、自警団員の活動の可能性、真実を見つけるよりもセンセーショナルな事件を探すのに熱心な報道機関などといった存在と対面しなくてはならなかった。社会的プライオリティーが法の遵守よりも勝っていたと言えるだろう。アメリカ合衆国憲法や法律書に貫かれる大いなる理想はみな素晴らしいものであったが、両大戦間の時期は平均的なアメリカ人の目から見ても概ね賢明なものではなかった。政治家や裁判所、警察の職権乱用はしばしば許容され、社会からも熱烈に支持されることさえあり、(職権乱用するに至った)その事件がマスコミや住民によって有罪と見なされている場合はなおさらだった*2。職権乱用が継続的に行われ手に余る場合だけは、大衆暴動などがその矯正の役目を果たした。

*2…つまりは、大衆から有罪と_見なされている_容疑者に対しての警察や裁判所などの法逸脱行為は大目に見てもらえるということみたいですね。


参考資料

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1995 John H. Crowe, III.


訳者ノート:今回で「警察の力」も一応の区切がつきました。次回は本記事の補足的内容で、1920年代のプレイにも有用な当時の法律や連邦機関についての記事を掲載します。(TRAM)


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